開催期間:5月31日(木)~7月30日(月)※終了しました
今年は「戊辰戦争」から150年目の年です。湯沢町の三宿(浅貝、二居、三俣)も影響を受けました。人々は、ただ命じられて郷兵や人足として駆り出されたり、兵糧を納めたりしなければなりませんでした。その上、浅貝と二居は、さんざん協力させられた会津藩兵に焼かれてしまいました。その内容は、決して面白く楽しいものではありません。
しかし、これは湯沢町で起こった出来事です。面白くも楽しくもないとしても、知ることに意義があると私たちは考えます。写真パネルや地図を用いて、なるべく分かりやすいよう展示しております。ぜひご来館くださいませ。
トップ画像、「浅貝本陣」の絵は『湯沢の歴史(北越戊辰戦争随筆)』の著者、南雲常吉さんが描かれたもので、展示しております。浅貝本陣の綿貫みつさんが、常吉さんから譲り受けたものをお借りしました。
郡奉公行の町野源之助が小出島(魚沼市)の陣屋で総勢20人ほどの態勢を作り、郷兵200~300人を連れて、上州8藩からなる新政府軍からの攻撃を守るため浅貝へ来ました。写真は小出島陣屋の跡地。
三国街道の三国峠を越えて永井宿寄りにある「大般若塚」に陣所を設け、隊長の池上武助や源之助の弟、久吉が詰めました。大般若塚は小高い位置にある、山の中ながら少し広くなっている場所です。三国街道で下って行くと3時間ほどの距離に永井宿があります。
会津藩士たちが終日警戒して何事もないと判断した夜、郷兵だけを残して三坂茶屋別当へ引き上げた会津藩士たちは、翌日朝、新政府軍の攻撃に敗れました。
逃げる会津藩士は、新政府軍に利用されないためにと浅貝宿に火をつけ、55軒中1戸を残して全部焼き払いました。浅貝宿 本陣跡地にホテル本陣リゾートが建っていて、屋根の一部わずかに遺構が残っています。同ホテルの当主綿貫家は江戸時代、代々浅貝宿の庄屋・本陣・問屋を務め、宿場関係の家伝文書を所蔵します。
浅貝宿を焼き払った会津藩士は、続いて二居宿にも火をつけ、寺1つと土蔵3つ残したばかりで全戸43軒を焼き払いました。全焼した二居本陣は明治2(1869)年に元通りの間取りで再建されました。
二居峠で最後の一戦をしようと、会津藩士は三俣宿まで飛脚を走らせたものの、一人の人足も集まってはくれず、二居峠での交戦は断念されたそうです。二居峠は別名「小豆峠」と呼ばれています。この下に見える家に声をかけ、小豆を煮ておいてもらうと、下り切った頃にはちょうど煮終わっていたからだということです。
たった150年前とも言えますが、様々な取材をして感じたのは「跡形しかない」ということでした。その中で、三俣宿の旧脇本陣「池田家」だけは当時の様子が感じられました。奇跡的に残ったとしか言いようがありません。池田家は今年4月、湯沢町に寄贈されました。
会津藩兵が逃げ去った後の清津川の河原で、藪の中から鉄砲が7梃、槍が1本、合薬2箱、胴乱9つが発見されたそうです。村役人は庄屋宅に引取っておき、新政府軍に届け出たのは1ケ月も過ぎてからといわれています。